経済法ガール

 ※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

第0話 ~出会い

まえがきはこちら。

 

22歳の4月。

 

ロースクールの入学式の後、僕はクラスとやらの懇親会をサボってラウンジで予備試験答練の復習をしていた。
昨年の予備試験にわずか1点差で落ちなければ、こんなところに居る予定は無かったのに。

 

「弁護士職務基本規程?」

 

おどろいて振り向くと、背後から問題をのぞき込む女の子、いや、女性が居た。
黒くてまっすぐなロングヘアーから、かすかに花のような香りがする。

 

うん、と僕は答える。彼女は薄いブルーのメタルフレームの眼鏡をくいっと上げ、目を細めて法律実務基礎科目(民事)の問題*1に付された弁護士職務基本規程の文字を追う。

 

彼女は僕の肩越しに身を寄せながら、つぶやく。
「予備試験って、こんな問題が出るのね。でも、法曹倫理なんて、規程をきちんと読んで常識に従って考えればすぐにわかる。覚える必要なんてないでしょ。」
いいんだよ、1点でも取り逃さないように練習しているだけなんだから、と僕は目を伏せる。

 

「実際に依頼を受けた気分になって規程を読んでみると、楽しいよ。」
彼女は僕の耳に口を寄せてささやく。

 

「あなたはメーカーの社内で働く弁護士です。ある日企画の人が急いでやってきて、『ライバルメーカーに発売前の新製品の価格情報を出さねばならないので、NDAを作って下さい』と言われました。さて、貴方が弁護士倫理上、気をつけなければならないことは?」

彼女は遠慮もせずに隣の席に座り、僕の手からペンを取る。白くて綺麗な手が一瞬、僕の手に触れる。

 

NDAがわからない?」
僕は心の中で(秘密保持契約)と答える。でも声には出さない。

 

彼女はサラサラと僕のノートにNon-Disclosure Agreementと綺麗な字で綴る。
「頭文字を取って、NDA。秘密保持契約とも機密保持契約とも言う。要するに秘密情報を守れ、っていう義務を課す契約。さて、君なら何に気をつける?」

「秘密保持契約だから・・・弁護士法23条の秘密保持義務と、弁護士職務基本規程第23条『依頼者について職務上知り得た秘密を他に漏らし、利用してはならない』に違反しないように、秘密管理に気をつけるとか?」

「そうね、それは大前提だけど。もう一つ、大きな問題がある。」

彼女は神妙な顔で身体を起こす。かすかにまた花の香りがした。

「『何のために』、ライバルメーカーに、発売前の価格情報なんて出すの?」
あっ、と気がつく。ライバルに発売前の製品の価格を教える訳がない。発売前に新製品の価格を知られたら、出し抜かれてしまうじゃないか。

 

「そう、おかしいよね。」

彼女は急に講義しているような口調になる。

「競争相手であるはずのライバルメーカーに発売前の製品価格を流すということは、『競争せずに仲良く売りましょう』という目的で情報を流す、つまり、価格カルテルを結んで競争を制限しようとしている可能性が高い。カルテルは不当な取引制限として独占禁止法2条6項および3条で禁止されている行為 。そうすると?」

「弁護士職務基本規程51条。『違法行為を行おうとしていることを知った時は・・・その組織内における適切な措置を取らなければならない。』」

「正解。上司に報告し、社内調査を行なって、必要なら公正取引委員会へのリーニエンシーなども検討する。
経済法*2なんて、単なるマイナーな選択科目だと思っているかもしれないけれど、実務では思わぬところでしばしば遭遇する。将来企業法務に関わりたいなら、勉強しておいた方が身のためよ。」*3

 

「じゃ、また会いましょう。」


そう言って、呆然としている僕を尻目に、彼女は席を立った。
後に残る花の香りと、一瞬触れた柔らかい白い手のぬくもりだけが、いつまでも忘れられなかった。

 

 

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一連の「法学ガール」シリーズの元ネタ(たぶん)となった、結城浩先生の「数学ガール」に敬意を表し、

ミルカさん」を今の法科大学院*4に置き換えてみました。

 

 

第0話では「経済法(独占禁止法)って、勉強しても将来役に立つんですか?」と法科大学院でさえ言われてしまう、経済法と企業実務とのかかわりを描き、イントロに代える予定です。

第0話は「わかる人にしかわからない」ような内容になっていますが、司法試験の問題を解きはじめる第1話以降を読み進めて頂ければ、最終的にはこの第0話の背景がわかるように書き進めたいと思っています。

何卒暖かく見守って頂ければ幸いです。 

*1:平成24年度(昨年度)予備試験の「法律実務基礎科目」の問題はこちらをご参照下さい。※pdf直リンク注意

*2:司法試験科目および法学部・法科大学院においては、独占禁止法を扱う科目は「経済法」と呼ばれます。なお、司法試験科目の「経済法」の範囲は①独占禁止法、②入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律③下請代金支払遅延等防止法(下請法)④不当景品類及び不当表示防止法(景表法)⑤不公正な取引方法(昭和57年6月18日公正取引委員会告示第15号)となっていますが、実際には毎年独占禁止法と⑤の告示から出題されています。

*3:なお、NDAの検討においては、独占禁止法違反が問題となる以前に、開示した情報を目的以外に使われないためにも「何のために」情報を出すか、というチェックが欠かせません。

*4:主人公には「ロースクール」と呼ばせています。細かいニュアンスの違いは当事者でもよくわかりませんが、なんとなく学生は普段「法科大学院」とはあまり呼ばず、「ロー」とか「ロースクール」などと呼ぶことが多い気がします。単に「ほうかだいがくいん」という発音が面倒だからかもしれませんが。